Chapter 9:嘆きの聖地 (The Weeping Holy Land)

『ARKの女帝』

【Code: Spatial Acupuncture (空間鍼灸)】

馬車が、ドスンと重い音を立てて泥濘(ぬかるみ)に沈み込んだ。  到着を告げる御者の声はない。ただ、逃げるように馬を切り離し、走り去る蹄の音だけが遠ざかっていく。

「……ちょ、ちょっと待ってよ! 置いていかないでよぉ!」

 リナが窓にしがみつき、悲痛な声を上げる。だが、返事はない。  残されたのは、不吉な静寂と、窓ガラスにベタリと張り付く「黄金色の結露」だけ。

「……嘘でしょ。ねえ、ハルヒ様。窓の外、なんか……動いてませんか?」

 リナの声が震えている。  私は無言で、トランクから厚手の革手袋を取り出し、装着した。

「動いているんじゃないわ、リナ。『蠢(うごめ)いている』のよ」

 私は躊躇なく扉を蹴り開けた。

 ――ヒュオオオオ……。

 風切り音と共に、車内になだれ込んできたのは空気ではない。  **邪気(じゃき)**だ。  熟れすぎて破裂した果実と、古びた鉄錆、そして生理的な吐き気を催す甘ったるい花の香りが混ざり合った、濃厚な「澱(よど)み」の気配。

「うっ……!? ゲホッ、ゲホッ! な、なにこれ、息が……!」

 リナが喉を押さえて蹲る。  無理もない。一般人がこの空気を吸えば、肺の経絡が一瞬で詰まるだろう。

『――警告。大気汚染レベル、計測不能(エラー)』

 脳内で、ジェミの警告音がけたたましく鳴り響く。

『マスター。冗談抜きで危険です。空気中の「気」が濃すぎて、循環していません。……ここはもう、人間が住める環境じゃありません。「巨大なガス溜まり」です』

(分かっているわ。……結界強度は?)

『最大出力で展開中。ですが、リナの精神値(SAN値)が限界です。彼女、あと3分で「気当たり」を起こして倒れますよ』

 私は蹲るリナの襟首を掴み、無理やり立たせた。

「しっかりしなさい! 息を止めて、この香炉の煙だけを吸うの! 丹田(へその下)に力を入れなさい!」

「は、ハルヒ様ぁ……! 無理です、帰りましょうよぉ……! 見てください、あそこ……!」

 リナが涙目で指差した先。  巨大な城門の陰に、数人の人影があった。  かつての巡礼者か、それとも住民か。  彼らは地面に座り込み、虚ろな目で空を見上げている。  その肌は、まるで蝋(ロウ)のようにドロドロに溶けかけ、身体のツボにあたる箇所から、黄金色の結晶が植物の芽のように突き出していた。

「あ、ああっ……! 人間じゃない……! 身体から、石が生えてる……!」

「……ひどい『瘀血(おけつ)』ね」

 私は冷静に診断を下した。  ジェミが補足情報を網膜に投影する。

『ええ。過剰な地脈エネルギーを肉体が処理しきれず、気の流れが完全に止まって固形化しています。……東洋医学で言うところの、最悪の循環不全ですね』

「ひぃぃぃっ! やだやだやだ! 私もあんな風になるんですか!? 石になりたくないぃぃ!」

 リナが半狂乱になって私の腰にしがみつく。その爪が食い込む痛みが、皮肉にもここが現実だと教えてくれる。

「落ち着きなさい、馬鹿リナ!」  私はリナの背中の「心癒(しんゆ)」のツボを強く叩いた(物理的な精神統一だ)。

「貴女には私がついている。私の**『空間鍼灸(くうかんしんきゅう)』**の結界内にいる限り、指一本石にはさせないわ。……それとも何? 私の腕が信用できないの?」

「うぅ……ぐすっ……し、信用してますけどぉ……! でもぉ……」

「なら、泣くのをやめて荷物を持ちなさい。……見なさい、あの惨状を」

 私は顎で街の方角をしゃくった。  城門の奥、かつて聖地と呼ばれた街並みは、黄金色のカビとツタに覆われ、美しい建築物は見る影もなく歪んでいた。  それはまるで、血流が止まって壊死しかけた手足のようだった。

「ひどい……。街全体が、腐ってるみたい……」  リナが呆然と呟く。

『訂正します、リナ。腐っているんじゃない。「詰まっている」んです』  ジェミの声が、冷徹な分析を下す。

『見てください、マスター。あの中央広場から噴き出す光の柱。……あれが元凶(患部)です。あの大地の大動脈とも言える「龍脈」が何らかの原因で塞がり、行き場を失った膨大な気が逆流して、この土地すべてを汚染している』

 私の目が、患部を見定めた鍼灸師のように細められた。

「……やっぱりね。単純な『病』じゃない。誰かが無理やり流れを変えようとして失敗した、『施術ミス』の跡だわ」

「せ、施術ミス……?」

「ええ。自然な気の流れを無視して、強引に力を引き出そうとしたのよ。……結果、患者(ヨナ・ガルド)は全身の経絡がズタズタ。放置すれば、この大陸ごと気が枯れて死ぬわね」

 私はブーツの踵で、ぬかるんだ地面を強く踏みしめた。  ジュワリ、と嫌な音がして、黄金の泥が跳ねる。

「……ハルヒ様? まさか……」

「行くわよ、リナ、ジェミ。……手遅れ? 笑わせないで」

 私は絶望に沈む廃墟を見据え、不敵に笑った。  恐怖はない。あるのは、凝り固まった患部を前にした、治療家としての武者震いだけ。

「患者がまだ息をしているなら、鍼を打って流れを通すのが私の流儀よ。……総員、配置につきなさい。この詰まりきった聖地のツボを、私が『開通』させてやるわ」

 リナの悲鳴のような拒絶と、ジェミの歓喜の警告音が交差する中、  空間鍼灸の女帝は、邪気が渦巻く聖地へと、高らかに足を踏み入れた。

(続く)

コメント

タイトルとURLをコピーしました