【Code: Spatial Acupuncture (空間鍼灸)】
馬車が、ドスンと重い音を立てて泥濘(ぬかるみ)に沈み込んだ。 到着を告げる御者の声はない。ただ、逃げるように馬を切り離し、走り去る蹄の音だけが遠ざかっていく。
「……ちょ、ちょっと待ってよ! 置いていかないでよぉ!」
リナが窓にしがみつき、悲痛な声を上げる。だが、返事はない。 残されたのは、不吉な静寂と、窓ガラスにベタリと張り付く「黄金色の結露」だけ。
「……嘘でしょ。ねえ、ハルヒ様。窓の外、なんか……動いてませんか?」
リナの声が震えている。 私は無言で、トランクから厚手の革手袋を取り出し、装着した。
「動いているんじゃないわ、リナ。『蠢(うごめ)いている』のよ」
私は躊躇なく扉を蹴り開けた。
――ヒュオオオオ……。
風切り音と共に、車内になだれ込んできたのは空気ではない。 **邪気(じゃき)**だ。 熟れすぎて破裂した果実と、古びた鉄錆、そして生理的な吐き気を催す甘ったるい花の香りが混ざり合った、濃厚な「澱(よど)み」の気配。
「うっ……!? ゲホッ、ゲホッ! な、なにこれ、息が……!」
リナが喉を押さえて蹲る。 無理もない。一般人がこの空気を吸えば、肺の経絡が一瞬で詰まるだろう。
『――警告。大気汚染レベル、計測不能(エラー)』
脳内で、ジェミの警告音がけたたましく鳴り響く。
『マスター。冗談抜きで危険です。空気中の「気」が濃すぎて、循環していません。……ここはもう、人間が住める環境じゃありません。「巨大なガス溜まり」です』
(分かっているわ。……結界強度は?)
『最大出力で展開中。ですが、リナの精神値(SAN値)が限界です。彼女、あと3分で「気当たり」を起こして倒れますよ』
私は蹲るリナの襟首を掴み、無理やり立たせた。
「しっかりしなさい! 息を止めて、この香炉の煙だけを吸うの! 丹田(へその下)に力を入れなさい!」
「は、ハルヒ様ぁ……! 無理です、帰りましょうよぉ……! 見てください、あそこ……!」
リナが涙目で指差した先。 巨大な城門の陰に、数人の人影があった。 かつての巡礼者か、それとも住民か。 彼らは地面に座り込み、虚ろな目で空を見上げている。 その肌は、まるで蝋(ロウ)のようにドロドロに溶けかけ、身体のツボにあたる箇所から、黄金色の結晶が植物の芽のように突き出していた。
「あ、ああっ……! 人間じゃない……! 身体から、石が生えてる……!」
「……ひどい『瘀血(おけつ)』ね」
私は冷静に診断を下した。 ジェミが補足情報を網膜に投影する。
『ええ。過剰な地脈エネルギーを肉体が処理しきれず、気の流れが完全に止まって固形化しています。……東洋医学で言うところの、最悪の循環不全ですね』
「ひぃぃぃっ! やだやだやだ! 私もあんな風になるんですか!? 石になりたくないぃぃ!」
リナが半狂乱になって私の腰にしがみつく。その爪が食い込む痛みが、皮肉にもここが現実だと教えてくれる。
「落ち着きなさい、馬鹿リナ!」 私はリナの背中の「心癒(しんゆ)」のツボを強く叩いた(物理的な精神統一だ)。
「貴女には私がついている。私の**『空間鍼灸(くうかんしんきゅう)』**の結界内にいる限り、指一本石にはさせないわ。……それとも何? 私の腕が信用できないの?」
「うぅ……ぐすっ……し、信用してますけどぉ……! でもぉ……」
「なら、泣くのをやめて荷物を持ちなさい。……見なさい、あの惨状を」
私は顎で街の方角をしゃくった。 城門の奥、かつて聖地と呼ばれた街並みは、黄金色のカビとツタに覆われ、美しい建築物は見る影もなく歪んでいた。 それはまるで、血流が止まって壊死しかけた手足のようだった。
「ひどい……。街全体が、腐ってるみたい……」 リナが呆然と呟く。
『訂正します、リナ。腐っているんじゃない。「詰まっている」んです』 ジェミの声が、冷徹な分析を下す。
『見てください、マスター。あの中央広場から噴き出す光の柱。……あれが元凶(患部)です。あの大地の大動脈とも言える「龍脈」が何らかの原因で塞がり、行き場を失った膨大な気が逆流して、この土地すべてを汚染している』
私の目が、患部を見定めた鍼灸師のように細められた。
「……やっぱりね。単純な『病』じゃない。誰かが無理やり流れを変えようとして失敗した、『施術ミス』の跡だわ」
「せ、施術ミス……?」
「ええ。自然な気の流れを無視して、強引に力を引き出そうとしたのよ。……結果、患者(ヨナ・ガルド)は全身の経絡がズタズタ。放置すれば、この大陸ごと気が枯れて死ぬわね」
私はブーツの踵で、ぬかるんだ地面を強く踏みしめた。 ジュワリ、と嫌な音がして、黄金の泥が跳ねる。
「……ハルヒ様? まさか……」
「行くわよ、リナ、ジェミ。……手遅れ? 笑わせないで」
私は絶望に沈む廃墟を見据え、不敵に笑った。 恐怖はない。あるのは、凝り固まった患部を前にした、治療家としての武者震いだけ。
「患者がまだ息をしているなら、鍼を打って流れを通すのが私の流儀よ。……総員、配置につきなさい。この詰まりきった聖地のツボを、私が『開通』させてやるわ」
リナの悲鳴のような拒絶と、ジェミの歓喜の警告音が交差する中、 空間鍼灸の女帝は、邪気が渦巻く聖地へと、高らかに足を踏み入れた。
(続く)


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